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かつて“岡山村”がここにあった 中国黒竜江省・竜爪開拓団跡訪問記 … – 山陽新聞 (会員登録)

 戦時中、日本が国策として旧満州(中国東北部)に送った農業移民団「満蒙(まんもう)開拓団」。全国から約27万人が海を渡ったとされるが、終戦直前のソ連侵攻で多数の犠牲者を出す悲劇を生んだ。このうち、岡山県出身者が多かった竜爪(りゅうそう)開拓団(黒竜江省林口県)の跡地を今年7月、近現代史研究家・青木康嘉さん(65)=岡山市北区=ら岡山訪問団10人が巡った。訪問団に同行、戦後72年を経た開拓団の過去と現在を報告する。

 「竜爪(ロンジャオ)村」。広大なトウモロコシや大豆畑の緑の中に、ポプラ並木と赤っぽいれんが造りの家屋が点在する集落が見えた。かつての開拓団の名前「竜爪」を引き継いでいる。緯度が北海道稚内市と同じで、猛暑の岡山から訪れると真夏でも過ごしやすい。冬が長い土地柄なので、温かくなると春から秋の花々が一斉に咲き誇る。まだ7月だというのに、道端ではコスモスの花が揺れていた。

 県出身者4集落に229人

 引き揚げ者らが作成した記録「満洲第六次龍爪開拓団の足跡」によると、同開拓団は近畿・中国地方を中心に1254人が入植。府県出身者ごとに集落をつくり、農作物栽培や牧畜を営んでいた。岡山県出身者は日の出郷、春日郷、上岡山郷、八幡郷の4カ所に229人が在籍していた。1942年の合同新聞(山陽新聞の前身)では「地域内には緬羊(めんよう)協会の牧場もあって相当大規模な開拓団である」と特派員が伝えている。

 訪問団参加者の一人、小林軍治さん(74)=岡山市中区=は同開拓団日の出郷で生まれた。今回が6回目の訪問で、顔見知りの住民が集落を案内してくれた。2年前に訪問団が来た時には、木造の泥壁づくりの旧日本人開拓団家屋が1軒だけ残っていたが、昨年取り壊されて畑に変わっていた。近くの大阪・奈良出身者がいた浪花郷跡へ足を延ばすと、集落の入り口に「浪花」と書かれた道路標識が残っていた。今は「紅旗村」と名前を変えたという。「浪花の地名は文化大革命(1966~76年)の前まで使っていた。そのころまで日本人が掘った井戸もあった。でも、当時の建物も何も残っていないよ」と、地元に住む王奎芳さん(69)。近隣の林口中心部は経済開発地区に指定され、工業団地や高層住宅が建ち並ぶ開発ラッシュ。中国の経済成長は農村部まで及んでいる。地元住民もほとんどが戦争を知らない世代となっている。

 集団自決や飢え

 戦前戦中、満州は日本にとって貴重な資源の供給地であり、対ソ連のとりでだった。「満蒙(満州と内モンゴル)は日本の生命線」を合言葉に、貧困に悩む日本の農村を中心に多くの開拓移民を送り出した。満州事変翌年の1932年からのことである。岡山県史によると、同県からの移民は1934年に始まり、2907人が入植した。「王道楽土」「五族協和」といったスローガンの下、「赤い夕日」「輝く大陸」のイメージで多くの日本人を引きつけたが、1945年8月のソ連参戦で一転戦場化。開拓団員は広野を逃げまどい、集団自決や飢えで次々と倒れて行った。さらに開拓地は現地の中国人からわずかな金で強引に買い上げた土地だったため、満州国崩壊とともに現地農民のうらみが略奪などの行為として現れた。

 小林さんの案内で訪問団は竜爪開拓団員が避難したルートをたどった。終戦の年の秋に3歳になった小林さんの記憶はあまりない。後に両親や同行団員らに聞いた証言が頼りだ。それによると8月9日、ソ連軍が近くの林口駅を空爆。既に現地の「根こそぎ動員」で働き盛りの男性は徴兵されて不在だった。12日に高齢者や女性、子供らが避難を始めたが、ソ連軍の機銃掃射に追われて迷走。頼みの関東軍駐屯地は既に撤退してもぬけの殻だった。食べ物も底をつき、木の実や草を食べて空腹をしのいだ。疲労や飢えで体力のない幼児や高齢者から命を落としていった。当時、臨月だった小林さんの母親も山中で生んだ弟を連れていくことができなかったという。1カ月間広野を逃げまどった末、生き残った開拓団員らは捕虜になり、初めて日本の敗戦を知った。

 小林さんらが徒歩で逃げた道はきれいに舗装され、広野に高速道路が伸びている。ツアーバスの車窓から「横道河子」という名のインターチェンジの看板が見えた。竜爪開拓団員が投降した場所だ。「ここまでの逃避行で大勢の人たちが命を落とした。その無念さを生き残ったわれわれが伝えていかないといけませんね」と小林さん。そこから団員たちはハルビン、長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)などの収容所を転々とすることになる。

 終戦からの惨劇

 開拓団員にとっては、終戦の8月からが“戦争状態”の始まりだった。命からがら逃げて来た都市部の収容所では、中国東北部の厳しい冬が待ち受けていた。訪問ツアー帰国後に同開拓団からの引き揚げ者・船越美智子さん(89)=岡山市北区=に当時の様子を聞いた。ソ連軍の捕虜となり、たどり着いた先が長春の収容所。「収容所といっても日本軍の官舎跡で屋根があるだけ。食事も仕事もない。栄養失調や病気で大勢の仲間が帰国を待てず死んでいきました。一番怖かったのは(シラミを媒介とする伝染病の)発疹チフス。それで父親も亡くなりました」

 長春では在留邦人約2万人が亡くなったという。船越さんの父親を含め、その多くが埋葬された長春公園を滞在中に訪れた。「当時、冬は土がカチカチに凍るから穴が掘れず、死体の一部が土からのぞいていました」と船越さんが言う通り、木の枝で土を掘ると日本人のものと思われる白骨が出て来た。

 記録によると、竜爪開拓団の岡山県出身者のうち、生還できたのは半数の113人。死亡・戦死103人、不明や残留孤児になった人など13人。死亡場所で最も多かったのが、厳しい収容所暮らしを強いられた長春(38人)だった。

 日中交流継続を

 訪問団の青木さんや小林さんは、竜爪開拓団跡の住民との交流を継続させたいと考えている。当時を知る世代が高齢化する中、開拓団の歴史を共有しながら戦後生まれ同士が関係を深めることが将来の日中友好につながるとの思いがある。

 滞在中に林口県のホテルで夜、開拓団跡の住民を招いた交流会を開いた。お互いほとんどが戦後生まれで、中国人側もきわめて友好的だった。「孫子の代まで交流していきましょう」。宴席では地元で商店を営む劉正峰さん(58)が小林さんに語り掛け、再会を約束した。小さな交流だが、「近くて遠い国」の住民同士の強い絆が生まれている。




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