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『火花』も『コンビニ人間』も採点! 芥川賞受賞作に“偏差値”をつけたら… – ダ・ヴィンチニュース

『芥川賞の偏差値』(小谷野 敦/二見書房)

 1935年の創設以来、純文学の最高峰として君臨し続ける芥川賞。歴代受賞作には遠藤周作、安部公房、大江健三郎ら世界文学史に残る作家たちの小説が名を連ね、今もなお、受賞発表には世間からの高い関心が集まっている。

 しかし、実のところ芥川賞即ち名作、という公式は成り立つのだろうか? 『芥川賞の偏差値』(小谷野 敦/二見書房)は、第1回から2016年の第156回に至るまで、161もの受賞作品を「偏差値」という形でランク付けし、年代順に評していく衝撃の書評だ。文壇へのシビアな視線が物議をかもすこと間違いなしの内容は、全ての本好き必読である。

 多くの小説家が目標とするほどに、権威が高まった芥川賞ではあるが、その選考基準には疑問も多い。かつては同人誌も選考対象だったのに、いつの間にか五大文藝雑誌に掲載された作品が大半を占めるようになった。新人の賞と言われている割には、複数回候補になり続けている作家もいる。何より、著者・小谷野 敦氏にとっての切実な疑問がある。芥川賞にはある性質があると指摘するのだ。

その最たるものは、受賞作が、「面白くない」ということに尽きる。

 小谷野氏の偏差値によると、水準値といえる50以上を獲得した作品は全体の4分の1程度。かなり手厳しい採点となっている。小谷野氏は大江健三郎や西村賢太を高く評価しているが、いずれもキャリアの中では特別でない作品で受賞してしまったと嘆く。確かに、『飼育』を大江健三郎の最高傑作に挙げる人は、読書家の中でも少ないだろう。

 どうしてこんなことが起こるのか? 小谷野氏は推察する。まず、芥川賞が出版社間や選考委員間に生ずる、文壇のしがらみを背負っているのだとすれば、もっとも当たり障りがなく、地味な作品に贈られるのは当然ではないか。次に、選考が合議制なのもポイントだ。合議がもめればもめるほど、議論の対象にならなかった候補作が妥協点として、漁夫の利を得る可能性もあるのではないか。いずれも表沙汰になることはない事情なので確かめようはないが、芥川賞の権威にも物怖じしない小谷野氏の文章からは爽快さすら感じさせる。

 受賞が話題になった作品への評価も辛辣だ。石原慎太郎『太陽の季節』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、金原ひとみ『蛇にピアス』、又吉直樹『火花』……。いずれもベストセラーになり映像化もされたが、偏差値は50未満である。もちろん、あえて話題作を批判し、悦に入りたいわけではない。作家の強烈なキャラクターがマスコミにも大きく取り上げられた、村田沙耶香『コンビニ人間』には最高評価である72が付けられている。芥川賞は選考に少なからず、時代性や話題性も影響している。純粋な文学としての出来が評価されているとは言い難いのではないか? 小谷野氏の偏差値はそんな問題提起を含んでいる。

「純文学がつまらないから、芥川賞がつまらないのも当然だろう」、そんな風に考えてしまう人もいるかもしれない。しかし、小谷野氏はまさにそんな論調をこそ危惧している。ある受賞作に対し、「退屈だったが傑作」とする意見を受けて小谷野氏は反論する。

だが退屈なのは良くないと私は考えている。そういうものに芥川賞を与えるから、世間では純文学とは退屈なものだ、と思うようになるのである。

 純文学とは読者の感性や知性を刺激し、日常を一変させてしまう可能性を持つ表現だ。小谷野氏は、「純文学の最高峰」がその領域に達していないまま、世間に浸透してしまう現状に歯痒さを覚え、本書を発表したといえる。本書の真の目的は、受賞作の評価ではなく、賞や権威に惑わされないで文学に接してほしいというメッセージなのだ。「芥川賞」という肩書きを取っ払ってページをめくるとき、新しい読書の可能性が開けるはずである。

 ちなみに、巻末には小谷野氏が思う、1935年以降の名作一覧も収録。また、小谷野氏が受賞を逃した回に関しては選考委員への恨み節がこもっていて笑ってしまった。

文=石塚就一




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