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「文在寅大統領当選」これまでの道のり …既得権に立ち向かってきた64年間 – The Hankyoreh japan (風刺記事) (プレスリリース)

登録 : 2017.05.10 04:52 修正 : 2017.05.10 12:27

避難民の息子、維新反対の民主化運動家から人権弁護士に?

文在寅が歩んできた道程 1//ハンギョレ新聞社

 貧しい避難民の長男、非SKY(ソウル大学・高麗大学・延世大学以外の大学)出身の運動家、地方の人権弁護士、慶尚道の金大中(DJ)支持者…。  9日、大韓民国第19代大統領に選出された文在寅(ムン・ジェイン)当選人が歩んできた人生の軌跡には、大韓民国“非主流”の足跡がたくさん残されている。一部は持って生まれたものだが、自ら身を投じた経験によるものがほとんどだ。「大韓民国の“主流”を変えたかった」と声を高めた文当選人が歩んできた64年間の道のりには「社会的常識」に基づいて生きようとして、逆説的にも既得権勢力に立ち向うことになった一市民が、国家指導者に成長する過程がそのそのまま描かれている。 ■学生運動家と特殊戦司令部  1953年1月24日、文当選人は慶尚南道巨済(コジェ)の貧しい避難民(朝鮮戦争時に南に逃れてきた人)の家で2男3女の長男として生まれた。しかし、貧困は彼に消し去るべき恥ずかしい痕跡ではなかった。金持ちに対する“羨望”よりも、普通の庶民が経験する悲しみと悔しさに“共感”する心を抱くようになった。1972年、貧しい経済事情にも関わらず、無理して入学した慶煕大学法学部で、司法試験の勉強よりも民主化運動の先頭に立つ「学生運動家」になったのも、暗鬱な独裁の現実から目を背けられなかったからだ。  文当選人は維新反対デモが最高潮に達した1975年、「人民革命党事件」関連者の死刑執行の翌日に維新独裁の火炙り式を主導して逮捕された。釈放された後は、強制的に軍に徴集され、特殊戦司令部隷下の第1空輸特戦旅団第3大隊で服務した。無理やり連れていかれたにもかかわらず、軍生活は意外にも彼に合っていた。1976年「板門店(パンムンジョム)斧蛮行事件」当時、最精鋭要員に選ばれた文当選人は、ポプラの木除去作戦に投入され、表彰も受けた。特戦司令部での経験は野党政治家に執拗に付きまとっていた「北朝鮮追従」、「安保不安」のレッテルをはがす大事な資産になった。「軍隊に行ったことがない人は、特戦司令部出身の文在寅の前で安保を語るな」という文当選人の一喝に、国民が反応した。大統領選挙を控えて実施された各種世論調査で、有権者は彼を「安保問題に最もうまく対処できそうな候補」に挙げた。人生万事塞翁が馬だ。  1978年に除隊したが、拘束前歴のため、大学には復学できなかった。当然、就職もできなかった。司法試験の勉強を始めたのは、その頃突然この世を去った父に、息子が出世する姿を見せてあげられなかったという悔恨のためだった。司法研修院を次席で卒業したが、デモと運動家としての経歴のため、志望していた判事にはなれなかった。「デモをしていた時と同じ考えなのか」という国家安全企画部職員の質問に「私の行動が間違っていたとは思わない」と答えなかったとすれば、彼の人生はどこに向かったのだろうか。

文在寅が歩んできた道程 2//ハンギョレ新聞社

■友人であり同志の盧武鉉に出会う  弁護士の道を歩むことにした文当選人は1982年、第2の故郷釜山(プサン)に向かった。そこで生涯付きまとう“運命”的縁で、盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領に出会った。最初はただの「同業者」だった。勝訴率が高く、評判になっていた弁護士と、判事の任用が挫折した新人弁護士は、釜山市西区(ソグ)富民洞(プミンドン)にある裁判所の裏門近くに「弁護士 盧武鉉・文在寅合同法律事務所」を開いた。彼らは「恥じることのない弁護士になろう」と意気投合した。6歳の年齢差にも二人は先輩・後輩関係を超えて“同志”だった。盧元大統領は「盧武鉉の友人である文在寅ではなく、文在寅の友人である盧武鉉」という言葉で文当選人に対する信頼を表した。  2人とも最初から「人権弁護士」を目指していたわけではない。「いかなる事件も拒まず、依頼人の言葉に共感しながら一生懸命弁論」しているうちに、いつの間にか釜山はもちろん、蔚山(ウルサン)・昌原(チャンウォン)・巨済(コジェ)地域を網羅する労働・人権弁護士となり、在野の民主化運動に深く足を踏み入れるようになった。「釜山・慶尚南道 民主社会のための弁護士会」を創立したのに続き、全国で初めて、釜山民主憲法争取国民運動本部の発足にも参加し、1987年6月民主抗争への道を開いていった。「盧武鉉弁護士と共に戦った6月抗争の記憶は、これまでの人生で最もやりがいを感じた出来事」だった。3党連立に反対して釜山で民主党の旗を持ち、金大中(キム・デジュン)支持を掲げてきたが、彼には「地方の運動家出身」というレッテルが付きまとった。 ■最後の秘書室長、王首席  地方の人権弁護士だった文当選人が中央政治の舞台に登場したのは、2002年の大統領選挙直後だ。権威主義の打破を掲げた盧元大統領が「君臨しない大統領府」を作ろうと、文当選人に「民政首席」を引き受けてくれと頼んだのがきっかけだった。「あなたが私を政治へと導き、大統領にまでのし上げたのだから、責任を取るべきではないか」と言われ、「検察を掌握しようとしてもできない非検察出身を民政首席に任命し、『超過権力』から遠ざけることで、政治的・市民的民主主義が完成する」という盧元大統領の訴えに後押しされ、彼は大統領府に入った。 「政治家になれとは言わない、民政首席で終わりにする」という盧元大統領の約束を取り付けたが、その約束は守られなかった。1年で大統領府を去ったにもかかわらず、盧元大統領弾劾の弁護人団として再び呼ばれた。以降、大統領府市民社会首席を経て2007年に盧元大統領が退任する日まで、最後の秘書室長として行動を共にした。盧武鉉政権で大統領府首席秘書官と秘書室長を歴任した彼の経歴は、「国政運営の経験を持つなど、大統領の資質を備えている」というイメージを構築する政治的資産だったが、「王首席」、「王室長」と呼ばれ、盧武鉉政権で名実共にしたナンバーツーだっただけに、盧武鉉政権の失敗の責任を問われる弱点でもある。 ■盧武鉉の死去と喪主  2009年5月23日土曜日の朝にかかってきた一本の電話は、故郷の慶尚南道梁山(ヤンサン)に戻った文当選人を再び政界の真ん中に召還した。盧元大統領の悲劇的な死に、全国が悲しみに暮れていたその頃、彼は国葬を率いる「喪主」として国民の前に姿を現した。「政治的報復が招いた他殺」という悲痛の中で、控えめながらも毅然とした態度を示した喪主文在寅を人々は注目した。特に、葬儀場を訪れた李明博(イ・ミョンバク)当時大統領にペク・ウォンウ元議員が「謝罪せよ」と抗議する中、丁寧に頭を下げている彼の姿は深い印象を残した。盧元大統領に対する追悼ムードが続く中、李明博政権に対する失望感が高まるにつれ、彼を次期大統領選候補に押す人たちの声も高まっていった。 ■総選挙を経て大統領選挙へ  「あなたはもう運命から解き放たれましたが、私はあなたが残した宿題に縛られることになりました」。文当選人は、盧元大統領の逝去後、政治の前面に乗り出すことになったときの心境を、このように語った。政権交代という“大義”に対する重い責任を感じた彼は、2011年末の民主党の創党に参加したのに続き、2012年4・11総選挙では、釜山沙上区(ササング)に出馬して当選した。2012年6月17日には大統領選出馬を公式宣言した。「まるで虎の背中に乗ったかのようで、降りることができない状況」だった。  多くの人たちが「文在寅待望論」を掲げた。しかし、予備選挙のルールに合意するのに1カ月以上を消耗し、党内はギクシャクしていた。勝者に力を結集する祭りのような予備選挙は跡形もなかった。予備選挙が終了する頃には「再び一丸となるのが困難であるほど、党が分裂」してしまった。従来の民主党組織(民主陣営)と学者・政策専門家グループ(未来キャンプ)、自発的に参加した市民組織(市民キャンプ)など3つの柱の上に作られた選挙対策委員会は、“求心”がなく、シナジー効果をあげることができなかった。それから進められた安哲秀(アン・チョルス)候補との野党候補一本化に向けた交渉も、さらなる茨の道だった。セヌリ党は、早くから朴槿恵(パク・クネ)元代表を大統領候補に確定し、先を走っている状況だった。「経済民主化」と「福祉」など大統領選の議題を先取りし、「盧武鉉対朴正煕(パク・チョンヒ)フレーム」の選挙構図作りに打って出た与党の戦略の前で、お手上げ状態だった。国民の強力な政権交代の熱望にもかかわらず、結果は「52対48」の痛恨の敗北だった。

文在寅が歩んできた道程 3//ハンギョレ新聞社

盧武鉉死去後に「政治の道」へ、大統領選挙浪人の末に大統領府入り ■三度にわたる絶体絶命の危機  大統領選挙の敗北後、追及した文当選人は2013年、『1219、終わりは(新たなる)始まりだ』という題名を本を出版し、政治活動を再開した。国家情報院の大統領選挙介入事件とNLL(西海北方限界線)の放棄をめぐる議論、そして日々深刻化する朴槿恵大統領の不通などが、彼を再び政治の第一線に呼び出したのだ。今回は、押されるようにして出馬した2012年の大統領選挙の時とは全く異なっていた。「大統領になろうとする人にとって本当に必要なのは、『権力意志』よりも『歴史意識』、『召命意識』」だと答えていた彼は「少なくとも(2012年の大統領選挙で)大統領になろうとする熱情や切迫さが足りなかったのは事実」だと認め、反省を示した。「大統領選挙の敗因は一言で普段の実力不足、準備不足」という結論を下した彼は、2015年2・8全党大会に全力を注いだ。総選挙・大統領選での勝利の礎を築くため、党の体質を変える党代表になるため、本格的に乗り出したのだ。「黙っていれば花のみこし乗せて大統領選挙に連れて行くだろうに、傷つくことを承知でなぜ代表になろうとするのか」という党内の長老や側近たちの反対も、彼を止められなかった。「今回党代表になれなければ、党を十分に変えることができなければ、総選挙を勝利に導くことができなければ、その後に自分の役割はない」とし、「三度の絶対絶命の危機」を乗り越えたと自ら宣言した。  党代表就任以降の10カ月は苦難の連続だった。就任から2カ月で行われた再・補欠選挙で惨敗した直後、党内非主流側で火がついた責任論は新人代表のリーダーシップを巡る議論に飛び火した。再信任をかけてやっと通過させた「公認革新案」に反対した安哲秀(アン・チョルス)前代表などが、2016年4・13総選挙を目前にして大挙離党した時は、まさに絶体絶命の危機だった。彼は2012年の大統領選挙当時、ライバルの朴槿恵候補側で国民幸福推進委員長を務めたキム・ジョンイン元議員を非常対策委員会の代表に迎え入れる賭けに出た。首都圏で善戦したのはもちろん、釜山・慶尚南道で11人の国会議員を当選させ、総選挙で勝利した。「政界引退」を公言してまで、力を入れていた全羅道で国民の党に惨敗したのは政治的負担になったが、党内外から「政治力が大きく成長した」と評価された。「秘書室長の器」というは冷笑は徐々に姿を消し、名実共に野党の「有力大統領選候補」として浮上した。 ■「文浪人」 
 「三度の絶体絶命の危機」を乗り越えた直後、朴槿恵大統領弾劾という未曾有の事態が起きた。直ちに早期大統領選挙の局面に突入した。前倒しになったとはいえ、5年間も準備してきた「大統領選挙の浪人」にはもう2012年のような躊躇はなかった。「もはや運命ではない。宿命だ」と思った彼は、早くから党内選挙陣営を率いて大統領選挙に向けて走り出した。「親文(在寅)-非文フレーム」を破るために、側近を後ろに控えて、党内の多様な人材を起用し、キャンプの垣根を広げていった。  「拡張性がない」いう批判もあったが、政権交代を念願する「ろうそく集会の民心」は文在寅大勢論を支え続けた。李在明(イ・ジェミョン)城南(ソンナム)市長と安煕正(アン・ヒジョン)忠清南道知事がそれぞれ“左右”のバランスを取ってくれたおかげで、支持率は20%から30%台に、再び40%へと徐々にそして確実に積み上がっていった。熾烈な予備選挙が終わった後も、競争した候補たちみんなが大統領選挙での勝利に向けて手を取り合った。「党を中心に選挙に臨む」という約束通り、選挙対策委員会は一丸となって動いた。5年前とは打って変わった姿だった。ソン・ハッキュ元代表に続き、選挙終盤にはキム・ジョンイン元代表をはじめ数人の議員たちが「親文覇権主義」を批判して離党したが、波紋は微々たるものだった。分裂していた保守が“再結集”に乗り出したが、国民の政権交代の熱望の前では成す術がなかった。  第19代大統領になった文当選人は積弊清算に基づく「国民統合大統領」になると約束した。進歩と保守の理念で反目する大韓民国、慶尚道と全羅道など地域に分かれた大韓民国を一つにする出発点になるという誓いだ。朴槿恵大統領の弾劾によって「朴正煕時代」が終ったとすれば、文在寅政権を成功させて「盧武鉉時代」にも終わりを告げ、新たな時代へと進む誘い水になるという約束だ。これを通じて「政治の主流は国民、権力の主流は市民、だからこそ国民が大統領の」時代を開くということだ。文当選人はこのような時代を切り開いていく過程で「敵味方に分けること」や「政治的報復」はしないと語った。しかし、保守陣営はもとより、大韓民国の主流たちは「文在寅が当選すれば国が分裂するのではないか」という疑いの目で見ている。非主流の心を理解し、主流を説得していくことが、文在寅当選人の前に置かれた本当の課題だ。 イ・ジョンエ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr) 韓国語原文入力:2017-05-09 22:42
http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/794072.html 訳H.J(6109字)




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